2023.11.11
昨日、長野から来た人が、 京都は硬いものが多いね といっていた。なぜか惹かれる言葉だった。京都は人間の街なんだなと改めて思った。
昨日、長野から来た人が、 京都は硬いものが多いね といっていた。なぜか惹かれる言葉だった。京都は人間の街なんだなと改めて思った。
9月25-27日まで、コバショーさんが宿をしている伊豆大島にミカと滞在した。ついてすぐ、大きな椰子の木の見える丘で桜の木下、17アイスクリームを食べた。私は普段買わないカラフルなチョコが散りばめられたバニラアイスを選んだ。まだアイスをたやすく溶かす気温だった。赤とんぼがたくさん飛んでいて、風は涼しかった。フィクションの入り口のようだった。島に行く前々日に、甥っ子姪っ子、弟家族と母二人とでとても久しぶりにディズニーランドに行った。ディズニーランドのフィクションの入り口はわかりやすくあのゲートだろうか。
先週、5-6年ぶりにリオンくんと再会した。彼とは、チェルフィッチュのタイ公演を観劇しに行った際に知り合った。初めて訪れるタイの夜の街で積極的に迷子になりながら、言葉の通じない人に道を教えてもらい会場に行き着く道もあれはフィクションの入り口のようだった。というのも、このフィクションの入り口、という言い方は久しぶりに会ったリオンくんの言葉だった。入り口、について私も考えることがよくあって、この言葉は私をとてもワクワクさせた。
私は数字が揃う日が好きだ。時計を見ていても11時11分なんかを見ると嬉しくなる。今日は風も秋を主張していて少し遠出するには最適な日だった。風に乗っていくような感覚で自然に移動ができた。最近東京に行くととても疲れてしまうので、移動が大好きな私が移動を好きでなくなったのかと少し寂しい思いをしていたが、全くそんなことはなかった。好きでよかった。友人が豊田市美術館で展示をしているのでそれを観に京都から豊田へ。京都から向かうのは初だった。彼は身体とことばを大切にというとなんだか軽い気がしてしまうのだけれど、身体から搾り出す身体性の言語を扱うように思う。今回のパフォーマンスは特にとても好きで実は泣きそうになった。ことばに対して最近もやもやと思うことがあったけれどとても純化された言葉がそこにあって、すごく救われた。もっともっと、純粋でいいのだと思った。
言葉で説明ができるものにいよいよ興味が持てなくなってきてしまっている。なので商業的な仕事をするときには思い切りスイッチを入れ替える。それが結構なパワーを使うので追えるとドッと疲れがやってくる。言葉で拭いきれない部分を、質感や温度などの粒子の集合を立体的な体感として、感じたい。事象を表す単語は脳の中で図化されるので、視覚的なものが重複されたデザインを見ると具合が悪くなりそうになる。なんで足してしまうのか。説明的な創造物を見ること、接することが段々本当にできなくなってしまっている。調整が必要だ。
8月の終わりから東京に出ていて、予期していないたくさんの小さな点がつながっていて不思議だった。31日は京都で七生さんの展示会場の蔵を見学し、しほさんと七生さんに会って少し話してから東京に向かった。その日はなぜか全然眠れなくて朝方まで文章を書いていたのだけど、眠れた日と同じ感覚だった。東京について一つ展示を見て、アヤちゃんとsame galleryにお邪魔した。トンネルの中のライトが魅力的だった。色がなくなるライトで、黄色と明暗だけが存在していた。その後20時ごろからの打ち合わせ場所に向かう。初めて向かう場所だったので、全く知らない道をバスを乗り継いで進んだ。たどり着いた場所は以前の職場の近くで懐かしい場所だった。打ち合わせ場所に指定された一室のドアを開けると、好きなミュージシャンがそこにいた。驚きはしなかった。挨拶をして奥の部屋に向かう。アーティストの個展のお手伝いをする打ち合わせ。彼女の描く絵は陶器の外側と内側にある空洞のようで、そして配置的でかつて私が絵を描いていた時に思っていたことと考えが通じる部分があってとても興味深く、会えたことに必然を感じた程の自然な出会いだった気がして、静かなうれしさがあった。私はエフェメラや、質感を伴う制作物が得意だと思っているので、そういった依頼をくれる方にはとても感謝しているし、全力で取り組もうと丹田あたりが温かくなる。打ち合わせを終えて、お腹が空いていることに気がつき、懐かしいお店に入ってフォーを食べて、懐かしい道を通って実家に帰った。次の日はやや遅くからの撮影で助かった。朝封筒屋さんに寄ってから現場に入る。撮影後、展示会に向かう途中にヤマトくんに出会った。少しだけ話して別れた。目的のパンツ選びをミカが見守ってくれていた。試着中、同じ鏡に高校時代に好きだったミュージシャンが一緒に映った。その時も驚きはしなかった。試着をしていると、黄色を好きだということに毎回気づく。よくそのことを忘れている。今訳あって般若心経を暗記しているのだけど、昨日の打ち合わせの加藤くんも、撮影の岩澤さんも、仏教ゆかりのある方々で当たり前のように唱えられる人たちだった。そしてミカからお坊さんカメラマンさんとよく仕事する、と聞いていたのがその岩澤さんだった。次の日。細倉さんの展示を見に行く途中に暑さに耐えられなくなってカフェで一息ついて、再度向かう途中でまたヤマトくんに出会った。また短い会話をして別れた。
表面だけが無限にある。今の時代といったら大袈裟だけど、よくそんなことを感じる。自分がそうなのかもしれない。むかしから人との距離の取り方がよくわからない。学生時代、自分の思っていることや感情がわからないと言われたことがあって、愛情表現は大袈裟にした方がいいとアドバイスを受けて、その頃はそうなのかと思って頑張ろうとした。とても疲れた。わたしはいつも立ち寄るコンビニの店員さんが元気そうだったら嬉しいし、行きつけの喫茶店の店主がいつも自分がいることをわかってくれていたり、友人がいい表情をしていたら嬉しいし、遠くに居ても元気かなと想像するだけで嬉しかったりする。なんというか熱くなくていい。少し感じる体温みたいな距離感がやはりわたしは好きだ。だから少し熱くなり始めると、自然と距離を置いてしまう癖もある。小学校の頃から通信簿に観察力がある、と書かれていた。そう、観察が好きなのだ。集中力がとにかくない。いつも何かを見ているので、人や風景や香りの変化にはすぐに気づく方だと思う。いつでも何かを見渡していたいという望みのようなものがある。でも本当は熱いことへの憧れもある。そろそろかな、とも思う。
去年の昨日、京都に引っ越してきた。雑誌の仕事を終えてからの一年は割とゆっくりと感じる。今日は便利堂さんへ色校を受け取りに行った。私はやはり印刷と紙が好きだ。質量と、皮膚で感じるもの。空間に置かれるもの。空間の一部になるもの。色は光によって見る事ができているように、太陽の元でみれるものが作りたい。
空洞 からであり、さんずいに同じと書く 物事に全部ついている名詞についてとても興味がある。興味があると同時に全てに名前があるということにも違和感を感じる。個展をしたときに、関川さんが言おうとしてたのはきっとこんなことだろうなと、羊の消化みたいに考える。説明はしなくてもいいこともあって、宙に浮かせたままにすることがあってもいい。生徒に出している課題に、写真を文字化する。というものがあって自分が撮った写真に写っているものを全て言葉で書き写す、というもの。一枚の画像は一言で言うと「写真」であり「画像」であり、「私が撮った〇〇の場所で○月○日の風景」であり、同時に「書き尽くせない言葉の集合」である。「書き尽くせない言葉の集合」。言葉に取り憑かれている。とゾワっとする同時に、言葉が好きである。最近英語はなんだか気持ちがついてかなくて休止中ではあるが、同じ現象を英語ではまた違う言葉で表す。いやもはやそれは同じ現象なのか?言語をたくさん知ると見えてくる現象がその分増えていくのだろうか。
今日は、人生初神戸に、展覧会を見るために向かった。直線的な暑さではあったけど、風と海がある神戸は京都のそれとは明らかに違うものだった。美術館を出て、港の公園に向かうと海にぐんと近づいたにおいがした。瓶に水を詰めて遊ぶ子どもたちを景色のように見ていた。水も子どももガラスも光みたいだなと思った。
初めて出会った裕子さんと彼女のギャラリーまで胴体が曲がる長いバスに乗って、いろんな話をして向かった。ギャラリーについてようやくお互いの名前を知らないことに気がついて自己紹介をした。作本さんに勧められたビールを飲みながら、蓮沼さんの瓶に入った水の作品を見た。その水はギャラリーの近くの水のようだった。その水の中でいろんな生き物が生きていたからか、中に入った木に生えたカビが進んでいてそれがとても綺麗だった。いい気分に酔っ払って、裕子さんと話をして、話し過ぎてしまいそうで挨拶をして外に出た。駅に向かうと途中で炭火の匂いがして壁の向こうを覗くとたくさんの人がバーベキューをしていた。遠くからする炭火の匂いが好きだ。バーベキューはするよりも遠くから見ている方が好きかもしれない。
電車が遅延していて、席に座ったまま30分くらい待った。隣の席の生徒ぐらいの年齢の青年が話しかけてきてくれて短い会話をした。いい神戸日和だった。
今日は、宮﨑駿監督の「君たちはどう生きるか」を観た。日常においてあまり泣くことは多くない。(年に一度くらい盛大に泣くことはある)映画においてもそうなのだけど、過去一泣いた映画がディズニーピクサー「アナと雪の女王(邦題)」だ。要因としては、“氷の表現”だった。内容に関してでなく、とにかく氷の表現力がすごかった。氷以上に氷で、これを作った人たちの探究力というか人間の技術に対して途轍もない衝撃を受けて、ありえないくらい泣いた。映画館を出て駅までずっと泣いてた。ディズニーを見て育ったので、久しぶりに映画館でディズニーを観てみようと思った日だった。その頃、社会に出て2年目頃で、作るということを純粋にできない難しさや技術の未熟さ、こういうことしたかったんだっけ?感に悶々としていた時期で、そこに圧倒的な表現力を浴びて、こういうことなんだ!とよくわからない理解をした。とにかく人間ってすごいなと思ったのだ。
その時を思い出すような感覚をこの映画に感じてとても泣けた。あの頃と同じ、というわけではなく、歳を重ねた今の自分の感じている感覚を納得したというか、(納得したというのは、圧倒的なわからなさがあって、わからなさに対する納得。わからないを理解しようとせず、そのままでいい、そのまま受け取るという感覚。)そしてきっと監督ぐらいの年になった時にもう一度観たらまたわかることがあるんだろうなと、その年齢ならではのなんだかいろいろ溶けている、という感じがした。やっぱり長生きしたくなった。作る時はいつでも新人という感覚。
今日は、昨日の身体的な作業から打って変わって、デザインの作業に集中した。打って変わって、と思っていたけど、デザイン上の肌理を整える作業は通じるものがあるなと思い直した。ある部分を整えるには全体の調整が必要で全体を整えるにはある部分を細かく締める必要がある。ようやく整ってきた気がしたところで、けいかちゃんが京都に来ているので夕食をしに外に出た。よく会っているけれど、2人で会うのはとても久しぶりで少しだけ照れくさい感じがあった。今まで韓国の家庭料理屋に入ることは意外となかった。水キムチや韓国おでん小鍋、発酵料理で体内が満腹感と同時に軽くなっている感じがした。7時ごろ外に出て、まだ薄明るく夏の匂いがして大きく2人で吸い込んだ。祇園祭が始まっているので、山鉾を観に四条の方まで歩いた。初めて観る山鉾は思ったよりも大きく、迫力があった。お祭りは死の世界を感じて好きだ。いつか西馬音内盆踊りを観に行きたい。東京に戻るけいかちゃんを見送って、帰宅した。
今日は、いつものように工場に着くといつもの入り口から入れず、小さなドアから内部に入る。いよいよ地面にモルタルを入れる工事が始まったようだ。初めて会う甲斐犬のあずきくんとスイカちゃんがすごい剣幕で吠えてくる。少し経つと敵ではないと認識されたのか、撫でて撫でてと体を近づけて目で合図してくれた。こんなにも顔つきが違くなるのだなと感心した。2頭とも目がとても綺麗だった。甲斐犬は山梨県の日本犬種で毛の印象から「虎犬」とも呼ばれるそうだ。虎毛は山野で狩りをする際の保護色となるよう。その血からか、先日は2頭で家を逃げ出して鹿を仕留めていて、その道が通行止めになり、警察に呼び出されたようだ。すごい。
今日の作業は、鉄板同士を溶接した隙間をパテで埋めて、塗装した時にパテで埋めていることを分からなくするためのやすりがけだった。0.1mmの段差でもあると塗装時に目立ってしまうようだ。指先に神経を集中させて念入りに何度も触って確かめる。なかなか肌理が整わずに思ったよりも時間がかかってしまった。無駄に力を入れて指先ばかり痛めてしまった。おそらくこれは、全身の筋肉を微妙に動かしつつやる作業だったのだ。帰り道、摩擦で指先にできた水膨れを見ながら反芻して、反省した。
今日は、ゲームの中の戦いのような舞台で、戦ってはいるけど深刻ではなかった。機関銃が途中で壊れてしまって、父がメンテナンスをしてくれている間、小さいピストルで応戦するのだけど、そのピストルが万年筆を曲げたようなきれいな形をしていて、セルロイドのような表情の白い素材でできていてとてもきれいで、それを眺めることに夢中だった。遠くの爆発の光を反射する表皮もきれいだった。最終的にみんな敵チームとハイタッチをして戦いを終えたので、遊びだったのだなという夢を見た。
今日は、宮崎駿監督の新作を見るために映画館に向かった。ディズニーランドのスペースマウンテンのような空間に行列ができていて、それぞれ個室に案内された。個室といっても仕切りがある程度で、私と牧さんは偶然隣の部屋になった。調理ができる設備があったので各々好きな食べ物を作りながら食べる仕様になっていて、私は一人の時に食べる自分のオムライスが好きなのでそれを作ろうとした。きれいにみじん切りをして炒めたフライパンを、間違えて水に沈めてしまって、牧さんは手早く料理も食事も済ませていた。しょうがないから卵だけ食べるか〜と思いながら映画の内容が全然入ってこないな、という夢を見た。
京都、晴れ